シークエンス1「神様がいる喫茶店」

「アイスコーヒーになります」
 あたしはそう言うと、テーブル席に座っている一人しかいない上品な淑女の前にコーヒーの入ったグラスを置いた。
 窓の向こうを見ると、もうすでに真っ暗だった。空調の効いている、ここ「喫茶 がじぇっと」と違って、外はだいぶ暑いんだろうなあ。
 女性は目を真っ赤にさせ、きれいに整っていただろうメイクは涙でボロボロになっていた。手に持っているハンカチは涙とアイライナーで黒く湿っていた。巻いていただろう髪はぐしゃぐしゃで艶はもうすでに無い。黒く長いワンピースは転んだためか、土で汚れ、少し破れていた。
 彼女の手元には中年男性と若いショートカットの女性が肩を組んで歩いている写真と、キスをしている写真の二枚が置かれていた。もちろん見るつもりはなかったのだけど、見えてしまったのはしょうがない。
 女性はあたしに何も言わず、無言でコーヒーを啜る。それから、両手で顔をうずめ、子供のように大泣きし始めた。
「もしかして、と思って探偵を雇ったけど……。どうして……! どうして、あの人はあたしというものがありながら……! こんな小娘になびきやがって!」
 女性は大声で叫ぶと、立ち上がり、二枚の写真をまとめて引き裂いた。
「にくいにくいにくい! あの小娘がにくい! うちの主人を奪いやがって! わたくしがせっかく築き上げてきたこの会社を旦那ごと盗んでいく気なのだわ!」
 さっきの上品さはどこへやら。こう大声でがなりたてると、女性はテーブルを大きな音を出して叩いた。
「では、どうなさりたいのですか?」
 カウンターの向こうから黒い癖髪に金の瞳を持った華奢な青年が現れた。彼は白いワイシャツと紺色のチノパンの上に黒いエプロンを掛けている。何を考えているかわからない無表情でこちらを見ていた。いつも思うのだけど、ボーンチャイナのように白い肌はやっぱりなんだか生きている感じがしない。
「店長!」
 あたしは彼に向かって叫ぶ。
「ひびきさんに言っているんじゃあありません。そちらのお客様に聞いているんです」
 店長は顔を一ミリも変えずに、バッサリ言い切った。あたしは思わず、うぐぅと変な声を出してしまう。
 店長の質問に女性は、椅子に座ると、
「うちの旦那とあの女を別れさせたいわ! でもそんなの叶いっこないわ……」
 と、力なくテーブルの上に溶ける。
「では、少しだけ、ボクの話を聞いてください」
 この言葉を聞いた女性はグジャグジャの顔を上げる。
 店長は女性に近づくと、右手で三を作り、
「ボクは、人間の願いを三つ。そう、三つだけ叶えることが出来ます。もし、あなたがボクを信じてくだされば、ですけどね」
 そう言って、薄笑いを作る。店長の時々作るこの笑顔はなんだか不気味であたしは苦手だ。
「そ……そんなことが……できるはず……ない……わ……!」
 女性は突然の戸惑いに、目を泳がせていた。
「叶えるか、叶えないかは、お客様次第です。お代はそのコーヒー代だけで結構ですから、気にする必要はございません。ボクのことを信用してくださるのなら、の条件付きですけど」
 店長はたたみかけるように話を続ける。
 女性は泳いでた目を止め、テーブルのある一点をじっと見据えた。そして、
「ねえ、お願い。うちの旦那とあのウジ虫女を別れさせて!」
 女性は両手を絡ませ握り、懇願するように店長にすがった。
 店長は、
「はい。かしこまりました」
 と言うと、右手で指を鳴らした。軽い音が鳴った。

 その翌日のことである。
 今のところ、お客どころか、店長すらも買い出しに出かけていていなかった。あたしは、こんな絶好のサボりタイムはないと、棚に並んでいる漫画を手に取って、カウンターに座り、読み始めた。面白いギャグ漫画で、思わず何度も声を上げて笑ってしまう。そして、今までで一番面白いシーンで大笑いをしたとき、鈍い鈴の音がした。ヤバい。店長が帰ってきた!
 あたしはおそるおそる振り向く。そこには、店長ではなく、昨日の女性がいた。昨夜と違って、美しくメイクアップされた顔に、巻いた艶のある髪、そして、あたしですら一目でわかる高級ブランドのワンピースにボレロを着ていた。あたしは、とりあえずほっとする。
「店長さんはいらっしゃらないの?」
 女性はあのときと打って変わって落ち着いた様子で、あたしに微笑む。
「その様子じゃ、いないようね」
 女性は吹き出す。
「あはは……」
 あたしは、この場では渇いた笑いしか出せない。
「大変申し訳ないんだけど、ちょっと急いでいるから、ここでお茶をする閑がないの。でもどうしても報告したくって」
 女性は、そう言って昨夜からは考えられないくらいの笑顔をこちらに見せる。
「あのね。主人があの女と別れてくれたの!」
 女性は空いているあたしの左手を握り、上下に振る。
「店長さんがいらっしゃらないのは、残念だったけど、まあ、いいわ。よろしく伝えてね!」
 女性は手を振ると、鈍い鈴の音を再び鳴らして、出て行った。

 その五分後に帰ってきた店長に、あたしは先刻のことを話した。
 店長は、
「ふうん。まあ、あのお客がもう二度と来ないことを願うばかりですね」
 とだけ言って、買ってきた新刊の漫画や最新号の雑誌の整理をしていた。

 そのまた翌日。
 あたしは、さっき出て行った二組の親子連れの後片付けをしていた。
 流しでそれらすべて洗い流し終えると、鈍い鈴の音と共にすんすんと泣いているいつかの女性が入ってきた。最初の時と比べて、メイクは酷くない。でも、やっぱり崩れている。
「ど……どうされたのですか?」
 あたしの質問に女性は、
「主人が……主人が!」
 女性はその場にうずくまる。
 あたしは、どうしたものかしらん? と思って、頭を悩ませる。
「おや、この前の。どうなさったのですか?」
 奥の席のテーブルを拭いていた店長が戻ってきた。
 女性はがばりと顔を上げると、
「店長さん! わたくし、見たの! 主人がまた浮気をしたの! 信じられない!」
 と、店長に食らいつく。
「だから、もう二つ、願い事が叶えるはずよね? ねえ! またあの人とあの女を別れさせて!」
 女性は両指を絡ませ、祈り始めた。
「お客様、やめておいた方が、いいのでは?」
 あたしは「一応」忠告をする。
「お嬢ちゃん。もういいの。もういいの。悪魔に魂を売っても良いぐらいだから」
「ボクは悪魔ではないんですけどね。まあ、叶えますよ」
 女性の言葉に、店長はこう返すと、軽やかな音で指を鳴らした。

 三日後のこと。
 三人組のサラリーマン客を見送ったあたしたちは、カップを洗ったり、灰皿を片付けていたりしていた。
「いやあああああああああああああああああああああ!」
 突然、悲鳴を上げながら、件の女性が店に入ってきた。
「なんのようでしょうか?」
 店長はバカ丁寧に女性に話しかける。
 上げた女性の顔は、今までの中で一番酷いものだった。完全にパンダ目で、クマができている。髪はボサボサを通り越して、汚く古い箒だった。
 女性は店長にすがりつくと、
「ねえ、ねえ! 最後の願い、残っているわよね? 使わせて! ねえ、使わせて!」
 必死に訴えかけた。
「あの人が女性に興味をなくせば、いいのよ。だから、この願いを叶えて!」
 店長は一瞬だけ陰のある顔を作る。しかし、すぐにいつもの無表情に戻り、
「本当にその願いで良いのなら、叶えますよ」
 店長は静かに指を弾いた。

 それからまた三日経った。
 店長から若干治安の悪い繁華街に行くように言われた。ってことで、あたしは今、指定されたコンビニの前でアイスのコンビニコーヒーを啜りながら、突っ立っている。
 目の前にはピンクで派手な城型のホテル。まるで……というか、完全にラブホテルである。
 あのバカ店長、一応オトメであるあたしにこんなところにいろというのは、少々頭がおかしいのではないか? そういうプレイなの? と勘ぐってしまう。
 すっかりアイスコーヒーを飲み干してしまったので、空カップをゴミ箱に入れた瞬間だった。
 例の女性が目の前を通った。あたしは声をかけようかと思ったのだけど、かけられなかった。何故なら、その瞬間、女性は、
「あなたああああああああああああああっ!」
 と、声を裏返し、大絶叫したからだ。
 女性の目線の先は、ラブホテルから出てきた男性二人組だった。
 絶叫の後、バタリと倒れた女性に、周りにいた人々が集まってきた。あたしも、女性に駆け寄ろうかと思ったのだけど、その刹那、あたしのスマホからベルの着信音がなった。空気を読まないでかけてくる奴もいるのね! と思って、緑のボタンをタッチする。
「どうでした?」
 電話の主は店長だった。
「どうでしたってどういう……?」
 あたしの頭にははてなマークが浮かんでいる。
「ちゃんと、あの女性の願いが叶ったかな、と不安になったんです」
 店長は慇懃無礼に言った。
「叶うもなにも! 店長、また女性の旦那さん、浮気したんですよ。しかも、男性に! ラブホから男性と二人で出てきたんですよ! 女性は倒れて、あ、誰かが救急車呼んでいるみたいです。旦那さんと思われる男性は……このドタバタで消えてる!」
 あたしは、目の前で起きていることを実況することしか出来ない。
 店長は電話越しからでもわかるぐらい深く溜息をつくと、
「こうなるんじゃないかな、と薄々思っていたんです。あんなネガティブな願い事はあまり……というか、全く良いことないはずですし」
「ネガティブな願い事?」
 あたしは店長の言葉をリフレインする。
「そう。ネガティブな願い事です。あの女性の願い事の一つ目と二つ目は『別れさせて』三つ目は『なくして』でした。これが、もし、『自分だけを見つめて』とかの願い事であれば……もうちょっと結果は変わっていたかもしれません。まあ、ボクの力不足もあると思いますが」
 店長の声はどことなく悲しげに聞こえた。
「ここからは推測ですが、おそらくもうすでに……それか、そもそも旦那さんの心はこの女性にはなかったのではないのでしょうか。かわいそうなことですけど」
 店長の言葉に、
「後悔先に立たずって言いますよ。もし、店長。自分がその力を使わなかったら、そもそもこんなことにならなかったとは考えないのですか?」
 若干怒りを覚えているあたしは、ついキツい口調で、店長を責める。
「またボクの存在価値を否定するのですか。酷いですね」
 店長はますます悲しい声になっていく。
「ボクの力は何のためにあるのか、ボク自身が知りたいものですよ」
 店長の声は小さくか細かった。